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思いつくまま

 ここでは、ちょっと気になったことを記入していきたいと思います。

●2003年10月24日
 マスコミの方の取材を受けているときに、私のホームページが話題に。「ホームページをみましたが、なんて誠実な方なんだろうと感動してみていました」とのこと。うれしいやら恥ずかしいやら。「他の陣営のAさんよりはよかったです」との言葉もいただきました。

●2004年8月16日
20040429佐藤イラスト このイラストは、2000年6月、はじめての私の選挙のとき、当時高校生だった民青同盟員の女の子が書いてくれたものです。私が出馬表明したのは、1999年9月だったと記憶しています。当時、まだ民青同盟石川県委員長だったので、高校生同盟員のMさんが、色紙の真ん中に私の似顔絵を書き、高校生同盟員のみんなが、私へのメッセージをその回りに書いてくれました。その色紙をもらったとき、高校生たちのやさしさにふれて、あったかい気持ちになったことを今でも思い出します。
 私にとって、この色紙は宝物。党事務所の私の机の近くの壁に、今でも飾ってあります。
 同じ職場の先輩が、この色紙を見つけてびっくり。「デシカメで撮影して、ホームページで紹介しよう!」とひらめきました。
 数多くの高校生同盟員たちと一緒に頑張ってきた絆は、いつまでも固い。県外で頑張っている人、県外から戻ってきて今一緒に頑張っている人…。多感な高校時代に、民青同盟で活動した経験は、みんなの人生にとってかけがえのないものになっているようです。それに関わることのできた自分は幸せです。当時のことを思い出しながら、頑張ってきて良かったな、と思います。ちなみに、このイラストを書いてくれた女の子は、今、1児のママになっています。
 年々高校生たちを取り巻く状況は深刻になってきていると思います。自分を出せる場、自分も社会をよくするために頑張れるんだと実感できる場、励ましあえる仲間がいる場―民青同盟高校班の活動はまぶしい。多くの高校生に、民青同盟に入ってもらい、一緒に成長しあいたいと思います。

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●2004年9月27日
 以下の文書は、学習会の講師の準備をしながら、ぜひ学習会の参加者の方に伝えたいと思って資料として印刷したものです。学習会では時間の都合で紹介できなかったので、ここで紹介したいと思います。
 民青同盟の県委員長をしていたとき、人間的にも尊敬していた方の手記(1992年)で、幾度となく励まされたものです。掲載にあたり、私の独断と偏見で修正しました。

―(前略)参院選でのとりくみは、困難にうちかつ正しい指導と活動がなされるならば組織も個人も大きく変わりうるという可能性、そして真理を見ぬく目と力をもっている青年の良識とエネルギーにたいする、私たちの信頼と可能性を根本からつよめさせるものでした。(中略)
 専従になって6年、(中略)がたちました。(中略)「チャレンジ精神」の発揮なくしては一歩もすすめない、これが実感です。日々、「これがせいいっぱい」「これでもよくやっている」という自分と組織の弱点への安住傾向、現状を弁護したくなる気分とのたたかいでした。
 そういうとき私たちの背中をぐいと前へ押すのは、まわりの非専従の幹部と同盟員が昼夜分かたず奮闘しているリアルな姿です。ろくに休みもとれず残業で疲れた体を引きずって毎夜(中略)結集し、同盟の前進と自らの成長をかけて、(中略)団結して頑張っている仲間たち。また活動のなかでいやおうなく突き付けられる広範な青年学生の実態。「カンボジア派遣に反対。でもどうせ自分だけ考えても変わらない」という学生、「農業の将来に希望はなく、本来の仕事以外に夕方以降、宝石や電化製品の販売や保険の勧誘の仕事をさせられている」という農協青年、あげればきりがありませんが、日本の平和にもまわりの現状にも、つよい不満や要求、関心をもちながら、打開の展望がみえずに苦しんでいます。その意味で同盟員と彼らをつうじて多くの青年は、同盟組織と運動を前進させる正しい方針提起、われわれ幹部の正しい指導性の発揮をもとめている、これに専従者として自覚を少しでももちならばやっぱりこたえなければならないとの思いが支えになっていると思います。
 私が専従を要請されたのは大学4年の夏でした。当時、私のまわりの多くの仲間や先輩たちは、銀行や商社、メーカーなどの独占企業に就職していき、私もそういう進路を希望していました。私たちは独立民主の日本や社会主義の日本を建設するうえで、政権をとっただけではたりない、革命の側にたって高度に発達した生産、流通、行政などの各機構を管理運営できる民主的な人士が多く必要であるし、自らの将来もそれに重ねて考えていました。
 同時に、そういうかけがえのない任務をもつ党と同盟からの要請がある以上、自分は直接その働き手となることはできなくなっても、強大な組織を建設することをつうじて、自分一人のかわりに何倍何十倍もの優秀な働き手を送り出すことこそが、自分に求められている任務だ、自分はそのことによって貢献しなければならないと思って決意しました。いま、さまざまな班や戦線分野がありますが、そこの前進と同盟員の成長にかける思いは基本的に同じものです。
 その秋に田舎に帰って、「銀行に行くのはやめて、共産党に就職する」と言いました。おりしも父が病気で療養中、その月から収入も半減し、祖母も痴呆症で大変になったときであり、「家の苦労に知らん顔をして、お前だけ好きなことをするのか」と責められました。母は、(共産党の専従になるなんて)「なにをブルジョア的なことをいうとるのか」と言いました。両親にとっては「世のため人のため」というのは金持ちの次男三男がすることで、自分と家族が「口に糊する」処方を第一に考えるのが「労働者」的だというのでした。父はなんのために苦労して大学に行かせたのか、と腹立たしかったようです。
 一番つらかったのは、世話になった祖母がもうぼけて、ほとんどなんのことか理解できなかったのですが、「共産党だけはやめてくれ。このへんでも共産党はみんな嫌っとる」と泣きながら私に訴えたことでした。私は、あの侵略戦争で祖父が33歳で戦死し、戦後苦労して4人の子を育ててきた祖母の言葉だけに悲しかったのですが、「うちの家の戦後の苦労の根源にあの戦争がある。その苦労を見て育った、その家の子どもが、その戦争に唯一反対してたたかった党を知り、近づき、その党とともに生きることを選ぶのは、一番自然なことではないのか…」と涙をこらえ、しかし胸をはって話しました。
 そのときはもちろん理解はえられず、固い決意だけしめしてあきらめてもらうだけでした。それから卒業までの半年間、私がした唯一のことは、卒業式の日、新歓の作戦日だったので式には出ませんでしたが、普段着のまま事務室で学生証を卒業証書に交換し、その足で郵便局にいって、父の入院する病室あてにそれを速達で送っただけでした。
 それから6年、残念ながら祖母はいっそうぼけてしまいましたが、家には「赤旗」が入るようになり、父、母も愚痴は多いが、一応二歩共産党を支持してくれるようにはなりました。
 いまでも活動や学習をしていてときどき思うのは、独占企業に入っていった先輩や仲間のことです。彼らは、11時、12時まで残業させられ、そのあと仕事の必要に迫られて政治や経済の情勢、仕事にかかわるあらゆる産業について勉強をしているのでしょう。
 彼らとはちがって私は社会進歩をすすめる国民・青年のたたかいに、その正面舞台から参加することができます。だから私は度努力の市水準において「彼らにおくれをとってはならない」と思うのです。もちろん困難やきびしさはあるが、生きがいを直接に国民・青年の利益と運動の発展に重ねる幸福をつかめる部署にいます。それだけにこれらの仲間たちが企業や官庁のなかで公然と活動できる、そういう力関係の日本を、また私たちが日本の国民のなかで必ず多数派となり、この努力や苦労が無駄にはならないことを両親にわかってもらえる、そういう日本を私たちのたたかいで1日も早く引きよせなければと思います。
 先の参院選は、反共偏見、体制選択論の影響がどんなに広範であっても、「この方向で努力をつよめ組織を鍛えるなら、この日本でいつか必ず日本共産党と民青同盟が多数になれる」という確かな展望をあたえました。情勢と青年は同盟の抜本的な飛躍を求めています。この時期の民青同盟の幹部として活動する責任とやりがいを自覚し、(中略)いっそうがんばりたいと思っています。

 この先輩は、こころざしなかばに病気で亡くなりました。先輩がもし生きていたなら、今の私の姿を見て、どう語りかけるでしょう。この先輩の思いと自らの思いを重ねながら、日々努力したいと思います。上記の文書を、キーボードでたたきながら、こらえる涙を抑えることができませんでした。


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